急に暖かく、春めいてきました。
今日は一日中好天で、初夏のような日差し。
こんな春の日に、いつも思い出す詩の一節があります。
したたり止まぬ日のひかり
うつうつまはる水ぐるま
たぶん中学の国語で出てきたのでしょう。今でもよく憶えています。
あふれるような、まぶたを閉じても染みこんでくるような春の日差し。
田んぼの中の水路かどうか、水車がのどかに音を立てて回っている。
しかし、そんな春の日も、決して明るくうきうきした気持ちというわけではない。
うつうつまわる水車。
ごっとん、ごっとんと低い音でゆっくり回る水車が物憂げで、重苦しく聞こえる。
春の日差しはこんなにも明るいのに、というよりもむしろ周囲が明るい春の風景であればあるほど、逆に気分は沈んでいく。
そんなイメージを持つのです。
続きを憶えていなかったので調べてみると。
「寂しき春
したたり止まぬ日のひかり
うつうつまはる水ぐるま
あをぞらに
越後の山も見ゆるぞ
さびしいぞ
一日いちにちもの言はず
野にいでてあゆめば
菜種のはなは波をつくりて
いまははや
しんにさびしいぞ」
……やっぱり寂しい。
中二病的な中学生に、ある意味ぴったりじゃないでしょうか?
中学校に入学したとき、最初の国語の授業で島﨑藤村の「千曲川旅情の歌」を暗記させられました。
小諸なる古城のほとり
雲白く遊子悲しむ
……
……やっぱりこれも悲しんでいる。「緑なすはこべは萌えず 若草も敷くによしなし」とあるように、早春の情景です。
この詩にあるようにひとり濁り酒を飲んで寂しさをまぎらわせるのは、中学生には早いかもしれないけれど。
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こういった文学、考えてみると中学・高校時代しか触れる機会がありませんでした。
そういう多感な時期の教育って、いろいろな分野への「入り口」を作る上で大切かもしれないなと、改めて思います。
「入り口」さえ作っておけば、後からいくらでも、その入り口を手がかりに入っていくことができる。
そういえば昔、こんな文章を読んだなあ。
そういえば昔、こんな観察をしたなあ。
そういえば昔、こんな工作をしたなあ。
そういえば昔、こんな運動をしたなあ。
子供のころ学校の授業で半ばムリヤリ作られたそんなきっかけが、もしかしたら何十年も経ってから生きてくるかもしれない。
そんなことを最近思います。
「興味を持たせる教育」「嫌いにさせない教育」って、大切かもしれない。
感受性が豊かな時期は、人生の中であまりにも短いのですから。
あちこちで、オオイヌノフグリが綺麗に咲いています。