人口の1%(100人に1人)、子どもなら5%(20人に1人)にみられる、吃音(どもり)。
それが当事者にとってどれほど深刻であるか、そしてその深刻さが周囲の人々に、そして家族にさえどれほど理解されていないかを、改めて考えさせられました。
『吃音 伝えられないもどかしさ』(近藤雄生 著、新潮社、本体1,500円)。
吃音が重く生活や仕事に困難を抱えている人々に対する、数年にわたる取材の結果を軸に、統計、原因究明や治療が試みられてきた歴史、怪しい「矯正所」への取材の試み、そして変化してきた制度や支援状況についての情報まで、幅広い内容に触れられています。例の問題で廃刊になった『新潮45』に2014年から2017年にかけて不定期に発表された内容を、1冊にまとめたもの。
吃音の特長の1つとして、著者は「曖昧さ」を挙げています。
「原因も治療法もわからない。治るのか治らないのかもわからない。また、精神障害に入るのか身体障害に入るのかもはっきりせず、症状も出るときと出ないときがある。」(p202)
ある人にとって効果があると思われる治療もあるが、万人に効果がある治療法はない。理由なく悪化することも、改善することもある。
そのような曖昧で変化するものであるがために、吃音を障害と捉えるべきなのか、改善のためにとにかく努力すべきなのか、あるいは障害と捉えて受容していいのか、当事者でさえわからずに悩み続けることになります。
まして、他人と言葉でコミュニケーションする場面でなければ(つまり他人が存在しなければ)、吃音の問題そのものが存在しないのです。
取り上げられている吃音当事者のエピソードはどれも非常に重く、"読者が「自分も将来こうなってしまうのでは」と不安を感じてしまうかもしれない" と著者が懸念するのも頷けます。それでも、著者がこういった重い内容まで含めて発表したのは、"問題の深刻さを社会に訴えるためにはやむを得ない" という思いがあったから。吃音がからんだパワハラによる自死さえ起きており、労災認定をめぐって現在も争われているのです。
吃音の認知度はやはり現在も低いのだろうか。
吃音、どもりが知られていない、自分がそうだはと知らなかったという記述があちこちにありますが、現在でも、あるいは15~20年程前でもそんなに知られていなかったのだろうかと改めて感じました。身の回りにそういう人がいなかったからか、あるいは表にあらわれていなかったからか。
1995年に「スキャットマン」という曲が日本で大ヒットした米国人歌手スキャットマン・ジョンも吃音があり、「スキャットマン」はまさにその吃音を逆手にとった曲とも言えるものでしたが…。(スキャットマン・ジョン - Wikipedia には、「『Scatman (Ski Ba Bop Ba Dop Bop)』は前記の通り吃音の問題を歌っているのだが(歌詞にも吃音という単語が多く出る)、吃音の社会的な認知にはつながらなかった」とあります)
軽い「連発」(「こ、こ、こ、こんにちは」というような)しか「表にあらわれていない」から、吃音は「その程度のもの」と軽く考えられているのかもしれないと改めて感じました。連発が重い人や、難発(最初の音が出ず「……っっっっっこんにちは」のようになる)の人はそもそもコミュニケーションそのものを避けているため、特に難発については全然知られていないのではないか。
知らなかった内容が多かった。
本書を読んで初めて知ったことを列挙してみます。
- 現在では、吃音自体が発達障害の1つに位置づけられていること。
- 2005年から発達障害者支援法の対象になっていること。
- 精神障害者手帳や身体障害者手帳が取得できる場合があること。
- 2013年から環境が大きく変わり、採用試験や入試面接での「合理的配慮」が受けられる場合が増えていること。
- 子どもの吃音治療が近年大きく変化していること。
吃音のある子の親として。
私の長男には吃音があります。状態は、主にそれほど重くない連発で、まれに難発もあらわれます。
もともと発話が少し遅く、2~3歳頃には軽いチックも出たので、幼児期から「神経質な傾向」があったのでしょう。
吃音の原因は、現在では遺伝的要因が大きいのではないかと考えられているようです(本書p41)。
母から聞いたところによると、私自身、幼児期に吃音が少しあったということなので、その要素を受け継いでしまったのかもしれません。長女にも、幼児期に「伸発」がみられました(最初の音を伸ばして発音する吃音の一種)。
長男はその後、特に何も対策をすることもなく小学校から中学校へと進み、友人にも恵まれて問題なく過ごしていたようでした。高校進学時には学校に吃音のことをあらかじめ話しておいたように記憶していますが、入学後はやはり問題なく過ごしていたようです。
しかし、大学院在学中の就活では、やはり壁があった様子でした。
本書には、吃音があることにより就活や職場で困難に遭遇した例が多数挙げられています。ウチの子は就職後のこれから大丈夫だろうかという不安を感じずにはいられませんが、その一方で「ウチの子はこれほどひどくなくてよかった」という自分の醜い安堵感に気付いて嫌になります。
本書を読んで改めて考えさせられ、気付かされたことがあります。
「ウチの子は、本当は自分の吃音のことをどう感じているんだろう?」 と。
高校時代まではそれほど困難に感じていなかったようだったけれど、本当はどうだったのだろうか。
下宿生活だった大学・大学院時代はどうだったのだろうか。
もしかしたら、私の「それほどひどくないだろう」という考えは単なる思い込みであって、息子自身の感じ方は違っていたのかもしれません。
というのは、
「当事者の苦悩と、周囲からの印象との間に大きなギャップがあることが吃音の持つ問題の一つでもある」(本書p209)からです。
吃音のある方やそのご家族だけでなく、全ての人に読んでいただきたい本です。