前回の続きです。
「親である自分が納得する会社でなければ、子どもの就職先として認めない」という「親ブロック」が今でもあるという記事についてです。
私は、子どもが自分の人生を選び取って主体的に生きるために、子ども自身の選択を尊重したいと考えています。
なので、子どもが決めたことを「認める」(=OKを出す)とか「許可する」というスタンスは、ありえません。
子どもを放任? 子どもに丸投げ?
では、何でも子どもにまかせっきりで放任すればいいかというと、そうとも思いません。
私自身の意見や感想、提案、情報などは伝えます。
理由はいくつかあります。
大きくは2つかな。
- 知らないものの中から選ぶことはできないから。
- 気にかけているというサイン。
存在すら知らないものは調べられない。知らないものの中からは選べない。
これだけ情報が氾濫し、何でも調べられるように思える時代でも、ネットで検索できないことがあります。
それは、存在すら知らないもののこと。
たとえば。
このブログでときどき読まれている記事に、「スポラディックE層」について書いたものがあります。しかしこんな言葉は、それを知っている人でなければ調べようと思わないはず。存在を知らなければ調べることはできない。調べようという動機さえ生まれない。
職業だって同じです。幼児に将来何になりたいかと尋ねると、男子ならスポーツ選手とか、女子ならケーキ屋さんとか保育園・幼稚園の先生といったところでしょうか?
決まり切った仕事が上位に並ぶのが常ですが、それはそういう仕事しか知らないから。
子どもに何を食べたいか尋ねると、子どもが知っている料理しか出てきません。あたりまえのことです。
ですから、就活についても、子どもが知らないことがあれば、教えてやりたい。
そう思うのです。
気にかけているというサイン。
それと、これはオマケですが、親である私が「一応気にかけているよ」というサインとしてです。そういう意味も含めて、「働くこと」に関する情報で面白いと思ったものについては、子どもに伝えるようにしています。
でも注意しなければ。
しかしこの2つのどちらも、少し気をつけなければいけないなと、前回のブログ記事で引用したBusiness Insider Japanの記事を読んで思いました。
"親は悪気なく言ってくる。10年前、大学3年生の時、母は言った。
「仕事にやりがいなんて求めたらダメよ、辛いことを頑張って家族のために給料をもらう。それが仕事」
違和感を感じながらも、自分は甘いのかなと思ったことを覚えている。"
そしてこの著者は、「親も喜ぶだろうから」と配慮して就職先を選んでしまい、そのことがその後もずっと重くのしかかった、というのです。
意見を言うにしても感想を言うにしても、「でも最後は自分の選択だから。自分で納得するように選びなさい」と決まり文句のように付け足した方がいいのかもしれません。
でもそうすると、好きなだけ意見は言うくせに最後の責任は自分で負えっていう、投げやりな言い方になっちゃうのかな?
……言い方が難しい……。