「PTA会長はなぜちやほやされるのか」という記事を以前書きました。
当然のことですが、「組織の代表だから=組織の人数分の"戦闘力"があるから」なんて考えてみたわけですが、もちろんそれ以外の理由もあります。
その1つが、「いろいろな権限をもっているから」。
どんな組織でも、活動の方針や内容は中心メンバーで協議して決めることが多いのでしょうが、それでも「長」のつく肩書の人が最初の方向性を出す、あるいは最終的に決めるという場面は結構あるのではないでしょうか。
だからそういう権限をもつ「長」の肩書のある人が尊重される、ということはあるでしょう。
そして、権限といえば、それに往々にしてついて回るのが、お金。
予算の配分をどうするかという場合もあるでしょう。
あるいは、組織によっては、個別の具体的支出内容まで「長」の肩書のある人にお伺いを立てる場合もあるかもしれません。
あるいは、当初の予算にない、又は例年にない特別な支出をどうするか。「長」の肩書のある人にゴーサインを出してもらって支出するという場面もあるでしょう。
そのとき、「長」の肩書をもつ人はどう感じるか。
私がPTA会長をやっていたときの経験です。
例えば、備品か何かが足りなくて、新たに買わなければならないとき。
「これこれが足りないんですけど、買ってもいいでしょうか」とお伺いを立てられたとします。
それに対して、
「そんなの買えばいいじゃん。だって必要なんでしょう。いいですよー」
とニコニコ答えたとしたら。
お伺いを立てた人からは、喜ばれます。
太っ腹にOKを出した自分も、相手に喜んでもらえて満足です。
どう表現したらいいか……
「相手を満足させた自分」「太っ腹なところを見せた自分」みたいなことに妙な満足感を感じ、快感を覚えるのです。
これは危ない。本当に危ない。
いいところを見せようとして、
嫌われ者になりたくなくて、
あるいは、「長」の肩書に伴う権限に酔ってしまって、
「いいよ、いいよー」とずるずる支出を許可しかねない。そんな危うさを感じました。
組織によっては、「長」の肩書でなくても、会計さんが同じような役割をもつ場合もあるでしょう。
お金がもつ心理的な力は、思っているよりも大きい。
外部や内部からの監視・監査の目があまりなく、しかも担当者が1人だけで何年も交替しないような小さな組織では、使途そのものがズブズブになる可能性が常に存在するのではないかと思っています。
…と思ってこの記事を書いているとき、大きな会社に関するニュースが報道されました。
カルロス・ゴーン会長のような人でも、お金のことで間違えてしまうのかどうか。捜査が始まったところなので、真実はどうなのかはわかりません。
でも我々一般庶民が、普段取り扱うことがない「他人のお金」「組織のお金」「大きなお金」に関する権限を持つ立場に立たされたとしたら。
余計に、自らを律する気持ちが必要でしょう。