カタカナで書かれる「ニガテ」。
どうも、この表記がひっかかるようになってしまいました。
というのは、とある所でこの「ニガテ」という表現をやたらと目にしてきたからなんです。
それはどこか?
どこにそんなにニガテニガテ書かれているのか?
それは、進研ゼミのダイレクトメールなんです…。
進研ゼミのDM、2014年のジャストシステム(スマイルゼミ)への個人情報漏洩問題後は一時ぱったりと来なくなりましたが、しばらく前からまたときどき来るようになっています。
進研ゼミのDMには、マンガが必ず付いてきます。もはや「日ペンの美子ちゃん」状態。(「日ペンの美子ちゃん」は毎回同じ絵柄で1ページでしたが、進研ゼミのマンガは作画・絵柄も毎回異なり、何ページもある小冊子)
ストーリーはいつも、大体同じ流れ。
成績が悪いことに焦った主人公又はヒロインが、勧められて進研ゼミを始める。(その一方で塾に通学して失敗する友人が出てくることも。)すると、「ニガテ」に特化した課題を短時間で効率よくやるだけで成績が上がり、志望校に合格したりテストだけでなく部活でも成績が伸びたり彼女ができたりして無事ハッピーエンド!
……。
……。
何というか、「ニガテ」なところだけを効率よく短時間でつぶせば、勉強はそれでもうOK!みたいなメッセージばかりなんですよ。
そうやってニガテニガテばっかり見ていたせいで、カタカナの「ニガテ」アレルギーみたいになってきてしまいました。(わかりきった宣伝マンガをなんでそんなに毎回読んだの? っていうのはありますが)
不得意な人には、効率も必要かもしれないけれど。
勉強が本当に不得意な人にとっては、効率よく「重要なここだけを、こうやればOK!」というように、
- 絞られた内容を、
- 定型的な方法で、
やるというのも、必要な対策ではあるのでしょう。「限られた分野だけでも自信が付いたり勉強の効果を実感したりして勉強へのモチベーションにつながる」、あるいは「定型的な方法つまり「型」を理解してから、余裕があれば本質的なところに立ち戻って考える」というやり方はあるのかもしれません。
でも勉強は「どれだけ余計なことまでやるか」で差が付く。
しかし、勉強と効率は、ある意味対極的な面もあると、私は思います。
一定レベル以上になると、今度は逆に「どれだけ余計なことをするかで差がつく」んじゃないかと思うんです。
どれだけ回り道をしていろいろな方法を考えるか。
どれだけ脇道にそれて余計なことまで調べるか。
もしそれが自分の興味によるものであったのなら、興味の赴くままに考えたり調べたりして身についたものは、誰にも負けないものになるでしょう。
そういう非効率なことが、効率的な必要最小限の勉強では絶対に得られないことにつながると思うのです。
ただし、
子どもの興味をつぶさないようにするには、親の心の余裕が必要だし、
子どもの興味を引き出すには、子どもの好奇心を刺激する環境づくりが必要だし、
子ども自身に、「余計なこと」に興味をもつ精神的、時間的余裕が必要だし、
……
いろいろ難しいのは確かです。