とある新聞の投書を見ました。(恣意的に選ばれた新聞の投書内容にいちいち反応していてはキリがありませんが)
投書したのは60代男性。
要約すると、
- 現在まで微分・積分を仕事で使ったことがない。
- 自分の子どもも同様、数学には苦労した。
- そういうことは成人してから必要なら勉強すればよいのではないか。
- 生活には社会や理科の方が重要。高校での数学の比重が高すぎる。
という意見です。
それなら、数学が求められない世界に居ればよかったのに。
極端な言い方ですが、そう思いました。
数学が必要とされる学校に入学したのは自分だろうに、と。
私が高校に入学してすぐのころ担任の先生が話していた内容を、今でも憶えています。
「君達は、わざわざ受験してこの高校に入ったんです。ですからちゃんと勉強してください」
細かい言い回しは忘れました。でも、義務教育でない「行かなくてもよい」学校にわざわざ自分の意思で入学したのだから、勉強するのが当然だ。そういう主旨だったと思います。
普通科の高校で、得意・不得意や興味にかかわらず全ての科目をまんべんなく勉強するのがイヤなら、商業高校や工業高校、農業高校など、専門科目の比率が高い高校に行けばいい。
しかも、そういう高校なら、現在のような売り手市場になるずっと前から、卒業後の就職は好調です。
それをせずに普通科に入ったということは、「高校受験段階でまだ進路を限定したくない」、「進路をあとで広い選択肢から選べる状態をキープしておきたい」ということだったのでしょう。
であるなら、そこで求められる勉強はしなければなりません。入学したのに勉強したくない、では筋が通りません。
教養とは何か。
教育内容について考えていくと、最後は「教養とは何か」という問題に行き着くように思います。
微分・積分と同じように、例えば古文・漢文は必要か。物理計算は必要か。そもそも文学は? 読んで楽しめればいいのでは?どうして、読みたくもない七面倒くさい文章を読んで解釈しなければならないのか。あるいは音楽は? 体育は? ……
「実生活に役立つ勉強」が第一と思うなら、当面の生活に関係ない「役に立たない」勉強をしないで済む、専門の学校に行けばいいでしょう。
ただ、そういう学校に行った人が「役に立つ勉強」を本当にしっかり勉強するかどうかは別問題のようにも思いますけどね。
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ところで、現代では下の記事のような道だってあります。「とりあえず普通科」で苦手な数学を「やらされる」よりもよほどエキサイティングでしょう。でもその一方で、「とりあえず」進路を考える程度の人にとっては、はるかにイバラの道かもしれません。