ツイッターのタイムラインを眺めていて、ふと思ったことを書いてみます。
ムダをなくすのは難しい。
いろいろな場面で、です。
それはなぜかというと、ムダかムダじゃないかというのは価値観の問題だから。
1人で完結している世界なら、楽。
例えば、1人暮らしの部屋の中なら、自分が思うようにムダをなくすことは可能でしょう。
しかし、2人暮らしならどうか? そこですでに、2つの違う価値観が衝突します。何がムダで何がムダじゃないか。その共通部分だけしか、ムダとして取り扱うことはできない。
世の中のほとんどは、複数の人間で成り立っています。ですから、「ムダをなくそう」とするなら、まず「何がムダか」の議論から始めなければなりません。
例えば、PTA。
PTAのムダな活動としてよく取り上げられるベルマーク。現物を切り取って整理して集計して…という時代遅れの作業として、やり玉に挙げられます。
でもこれだって、「ムダだとは言い切れない」という考え方もあります。親同士のつながり作りもPTAの活動目的の1つだからです。そう考えると、ベルマークはその機会づくりに過ぎない。
「無駄」、「不必要」と言われる親睦スポーツ大会も同様です。
動員されて出るだけの各種講演会なども、単純にすべてが無駄とは言い切れません。
何がムダかは、何を目的と考えるか、どのようなことに価値をおくかという価値観の問題です。
活動への参加が負担になるという現状もよくわかる。
でも効率重視の活動がPTAの目的に叶うかどうかという面もある。
本来は、多様な価値観をうまくすり合わせ、最大多数の最大幸福を目指すべきなのでしょう。そういう落としどころを探るのが、政治というものなのかもしれません。
しかし残念ながら私自身には、それをやりとげるだけの能力も気力もありませんでした。
例えば、子育て。
子育てはムダの連続のようなもの。効率とは対極にあります。
効率的に、最小限の手間と時間で家事や子どもの世話を片付けようとしても、子どもは決してそのようには動いてくれません。むしろ、そうしようとするとかえって余計に時間がかかったりします。
すべて自分の思う通りに意志の力で乗り越えてきたような有能な人は、まずこれで子育てにつまづくのではないでしょうか。
子どもは、ムダな物があふれた雑多な環境の中でムダと思われる時間をたっぷり過ごさないと、実体験を積み上げることができません。時間や物が制限され、与えられたものだけで具体的な何かをするよう求められるといった経験だけでは、絶対に限界があります。そうした環境で育った「お行儀のいい子」は、伸びしろが小さくなるのではないでしょうか。
子どもが小さい頃に雑多ないろいろな物で遊ばせたり、ある程度大きくなってきたら本や雑誌、新聞などが目に入る環境にして活字に触れさせたり。子どもが何に興味を示すかを探るには、そういった雑多な環境が必要ではないかと思います。
例えば、ミニマリストの人(あるいはそこまででなくても、シンプルなインテリアで物の少ない生活が好きな人)は、子どもができたらどうしているんでしょう?
例えば電子書籍は、紙の本や新聞のように場所を取らないので大人にとっては便利ですが、「自然に子どもの目に入る」ことはありません。自分から能動的に見に行かないと、見る機会がない。(あるいは、日常的にタブレットに触るような生活では、そういったものが「自然に子どもの目にとまる」ような機会も生まれてくるんでしょうか…?)
ともかく、子どもにいろいろな生活体験を積ませ興味や好奇心を育てるためには、家の中は雑多な方がいいのではないかというのが私の考えです。
ムダを楽しむこと。
そして、大人である自分自身にとって。「ムダを楽しめるかどうか」が、心理的余裕の一つの指標になるのではないかと思っています。
「どうでもいいこと」「バカらしいこと」「くだらないこと」……そんなことを面白がってやれるかどうか、楽しめるかどうか。時間的、経済的、そしてココロの余裕的に。
「どうてもいいばからしいこと」を大まじめに楽しめるようでありたいと思っています。
不便益という発想~ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも 行き詰まりを感じているなら、 不便をとり入れてみてはどうですか?(しごとのわ)
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