今日はこんな記事を読みました。
『料理は女の義務ですか』の著者である阿古真理さんと、『ダメな女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』を翻訳した村井理子さんの対談の第2回です。
その中で、村井さんがお子さんたちに
「料理には、男の子とか女の子とか関係ないんだよ。自分がどうやって生きていくか、サバイバル能力なんだ」
と言っている、という一節がありました。
料理は、サバイバル技術。
私も、そう思います。
私が毎日のように料理をしているのは、まず第一に、自分が作らないと食べるものがないからです。飢えないためには自分で作らなきゃなりません。
朝は、妻は出勤の用意などで忙しいし、夕食時には妻がまだ帰ってきていません。それなのに食事が出てくるまでただ待っているとしたら、そんなのナンセンスです。私が作る方が単に合理的。
それに、食べるものぐらい自分でなんとかできないなんていうことが、ひとりの人間として一体ありえるんでしょうか?
話はそれますが、出張の荷物(着替えや洗面用具など)の準備を奥さんにやってもらうなんていう話を聞くと、同じ世界の出来事とは思えないほどありえないように思います。
そもそも、日本は普段の食事がバラエティありすぎ。
世界各地の日常の食卓が本当にどうなのかは知りませんが、おそらく日本の家庭の食卓は世界で一番バラエティに富んでいるのではないでしょうか?
世界の大部分では、朝も昼も夜も、決まり切ったメニュー、同じような地元料理を毎日繰り返し食べているのではないでしょうか?
日本では、和食も洋食も中華もエスニックも話題の創作料理も、あらゆるものが普通に家庭の食卓に並びます。そういう状況が、作り手へのプレッシャーになっているのではないでしょうか。
毎日の食卓なんて、最低限の定番でまずは十分。
作る側は、まず栄養が偏らないように考えればいいし、食べる側は、健康に生活できる食事を毎日出してもらえることに、まずは感謝すべきだと思います。文句を言うんなら自分で作れと。
土井善晴先生も言っているように、ご飯と具だくさんのみそ汁だけだっていいんです。みそ汁にどんな具を入れちゃってもいいんです。それでまずはいいじゃないですか。
もし30種類のレパートリーがあるなら、1ヵ月間、日替わりで出すことができます。もうそれで十分だと思いますね。
「ていねいな生活」もいいけれど。
もちろん、もっと手の込んだ、気の利いた食卓にする余力のある人は、どんどんやればいいでしょう。でも、それができないからといってプレッシャーに感じることはないんじゃないかなあ。そして、そういう食事が用意できないからといって文句を言うとしたらそれは筋違いじゃないかなあ。
繰り返しになりますが、家庭の中では「文句を言うなら自分でやれ」と思いますね。