先日、こんなツイートをみかけました。
ニセ医学にハマる人って「残念な人」のイメージが世間的にも強いと思うが、米原万里さんの晩年のエッセイを読んでイメージが完全に変わった。
— Podoron (@podoron) 2017年3月5日
知性と教養の塊の様な人が、癌を患った途端、本人も怪しいと分りつつも、怪しげな(民間)療法に次々と手を出していく。 「不安」はそれ程に強く恐ろしい。
これを読んで思ったこと。
自然科学が根拠としている統計学に対して、個人の個別的問題がどの程度の有効性をもつか。100万人に効かなくてもたった1人、自分にだけは効くかもしれないなら、と思ってしまうのだろう。 https://t.co/dTatuhYhd9
— イヨ (@iyoiyo2013) 2017年7月5日
医薬品の研究では、できるだけ条件を揃えた2つの集団に対して何かを行った場合と行わなかった場合の結果を、統計学的検定によって比較します。
片方には新薬候補、もう片方にはプラセボのように。
集団の中で効果があると科学的に判定された薬や治療の方が、自分自身で効果が得られる確率も高いと予想できるのは、合理的に考えれば当然です。
しかし、「科学的に証明された治療法はもうありません」と言われたら?
そこから先は、「科学的な判断基準」が自分にとっての効力を失ってしまうのではないか。
「100万人に効かなくても、自分にだけは効く治療があるのではないか」と考える人がいたっておかしくありません。
当然、そんな治療法を科学的に証明することなど、できるはずはありません。でも患者本人にとっては、繰り返し可能な無数の人々の集団において確率的に有効と言えるかどうかではなく、とにかく「自分1人が治ればいい」んです。
公衆衛生、教育、社会福祉その他の政策決定では、集団全体にとってどれだけメリットがあるかという観点が必要です。できるだけ多くの人間にとって有益であるように。
しかし、個人はあくまで個人。繰り返し可能ではありません。繰り返し可能でない事柄に関する意思決定を、どれだけ統計にゆだねることができるのだろう、と思います。
個人の一回性に対して、科学はどれほど説得力を持つのだろう。
まあそれ以前に、がん医療について言えば、医療側が科学的合理性の側に寄りすぎているために、患者のもつ非合理性を「ありえないもの、正しくないもの」として切って捨てるようなことがなければいいなと思います。
何を書きたいのかよくわからなくなってしまったので、今回はこの程度にしておきます。