子どもの頃、虫で遊んでいたことを憶えています。
といっても、虫取り網片手に野山や林を駆け回っていた虫取り大好き少年だったわけではありません。
空き地のアリ、草むらにいくらでもいたバッタやコオロギ、お盆で里帰りした父の田舎で無数に飛んでいたトンボ程度です。
虫で遊んでいた?
「虫で遊んでいた」って、一体何をしていたんでしょう?
幼稚園の頃。アリの足を引っこ抜いたり、体を引きちぎって「遊んでいた」ことを今でも憶えています。
トンボの羽をむしったり、線香で焼いたりしていたのは小学生のころだったか。
残酷?
大人の感覚からすれば、「残酷」な遊びでしょう。でも、だからといって、子どもにそういうことを「禁止する」のはどうかと、私は思います。
子どもは「残酷」という言葉の意味がわからない。
理由はいくつかありますが、まず、小さな子どもは多分「残酷」という言葉の意味がわかりません。そういう抽象的観念は、生と死について、それからさまざまな場面、さまざまな文脈で触れていくことによって初めて作られるものではないか。
そういう観念が生まれる前に一律にただ「禁止」することは、「よくわからないけどやっちゃいけないことだ」と思わせるだけなのではないか、かえって命に関する生(なま)の体験から子どもを遠ざけることになるのではないかと思うのです。
子どもがいくら殺しても、虫は減らない。
それに、子どもがちょっとやそっと虫を殺したとしても、虫は減りません。
昆虫の生命力は、そんなヤワなものではありません。
「でも現実に、いろいろな虫が減っているではないか?」
それはなぜか。
生育環境がなくなっているからです。
「好き」の反対は「無関心」。
子どもが虫をいくら殺したって、虫はいなくなりません。
でも、生育環境がなくなれば、簡単にいなくなります。
水辺がなくなれば、トンボはいなくなります。
食草がなくなれば、チョウもいなくなります。
クヌギやクリ、コナラなどの木と腐葉土がなくなれば、カブトムシもいなくなります。
よく言われるように、「好き」の反対は「嫌い」 ではありません。
「好き」の反対は「無関心」。
虫に対する関心がなくなれば、虫の生育環境も失われていくでしょう。
小さな子どもが「子どもらしい無邪気な、悪意のない」残酷さで虫に接していたとしても、大目に見てほしい。
私が今そんな場面に出くわしたら、大人の立場として「あーあ、かわいそうだねえ~あんまりやっちゃだめだよ(棒読み)」と言う程度にすると思います。虫に対する興味・関心を残しておくために。
トンボが飛び、チョウが舞い、コオロギが美しい声で鳴く環境を残したいと思います。
昆虫のある一族が人間を絶滅させようとする話。
1970年代当時は、東西冷戦といった世界背景や環境破壊、公害問題などもよくマンガのテーマになっていました。このマンガの連載当時、「昆虫に本気出されると人間は勝てないかも」と思った憶えがあります。