先日はこんな記事が。
「自分が苦労していたんだから他人にも同じ苦労させたい症候群」についてです。
この記事では,
「どう考えても不要かつ無駄な作業が、何故か改善・撤廃されない」
「改善しようとすると、そこに長くいた人から何故かよく分からない抵抗や圧力がかかり、改善することが出来ない」
「現在の作業者も全員無駄な苦労だということを認識しているが、嫌々その作業を継続している」
「本来なら改善を指示するべき上位の人間も、何故か見て見ぬ振りをしている」
……ようなときに,抵抗勢力と思われる方々に個別に丁寧に根回しをした結果,スムーズに改善できたということです。
「どう考えても不要かつ無駄な作業」
「どう考えても無駄」と「自分が思う」場合について,ちょっと書いてみます。
(ところで,「自分も,やっても意味のない苦労だとわかっていながらやったんだから,他人にも同じ "意味のない苦労" をさせたい」と思っている人は,あまりいないと信じたい。それはさすがに意地が悪いとしか言えないでしょう)
状況によりさまざまだと思いますが,
- 最初はそうすることが正しかった。
- 最初はその方法しかなかった。
- 最初はそれが可能であった。
それが,
- 現在はそれは間違っていると言われている。
- 現在はほかにもっといい方法がある。
- 現在はその方法には無理がある。
というように,知識,技術,社会状況などが変化したという場合もあるでしょう。
かつて正しかったやり方,内容が時代に合わなくなったとき。
おそらく,最初にそれをやっていた人間自体も古くなって,時代に合わなくなっているのでしょう。
そのときに,「今の人がそう言ってるんだから,今はそれが正しいのだろう」と思えるかどうか。私はむしろ,すでに「そっち側」の立場になってしまっていますから,自戒したいと思います。
でも。
上記の記事とは状況が少し違うと思いますが,
- 「"どう考えても不要かつ無駄"と思うかもしれないが,実は別の意味もある」と思われている
という可能性もあります。つまり,自分(あるいは自分たち)には「不要かつ無駄」に思えるが,他の人は意味があると考えている可能性があります。この場合は,大げさに言えば,個人と個人あるいは世代と世代の認識あるいは価値観の違いです。
上記の引用部分では,「何故か」が何回か使われています。もしかしたらそこにヒントがあるかもしれません。自分が知らない何かを他の人は知っているのかもしれない,あるいは自分とは違う見方を他の人はしているのかもしれない。
========
いずれにしろどちらの場合も,会議などオフィシャルな場でばーんと「自分が思う正論」をぶつけるやり方では,軋轢が生じたり,表面上は何もなくても隠れたしこりを残すことになるのが現実でしょう。上記記事にある通り,個別に説明をしたり話し合ったりして根回しをすることは,意図した結果を達成するには必要なことではないかと思います。
そういう手続きが大変だから,変わらない・変えられないというのが実情なのでしょうけれど。
なんだかまとまりませんが。