今日はこんな記事を見ました。
読んで思ったことを。
興味を持つことができるかどうか。疑問を持つことができるかどうか。
そして、それを解決しようとして人に聞いたり自分で調べたりできるかどうか。
この違いはとても大きいと思います。
でも、興味・好奇心を、「外から」子どもに教えることはできるんでしょうか。
私は、全くのゼロから生み出すことはできないんじゃないかと思っています。
できるのは、すでにあるものを「発掘する」ことだけ。
好奇心を「発掘」できるかどうか。
「これ面白いよ」「これ不思議だよね」……
そんなことを百万回言ったとしても、興味がなければ心にはひっかからないと思います。むしろ、「面白いよ」「面白いよ」なんて何回も言われたら、逆に嫌いになりますよね。
子どもは、持って生まれた性格の一つと同じく、もともと「どんなものに興味を持つか」も決まっているんじゃないかと思っています。どの程度の「強さ」で興味を持つかも。
撒き餌作戦。
でも、持って生まれた「興味をもつ対象」が何なのかは、なかなかわからないかもしれません。
ウチの子は、一番上の長男と真ん中の長女は興味の対象がとてもわかりやすく、親としても「都合のいい」ものだったので、その方面を好きなだけやらせておけばよかったんですが、それ以外にも試行錯誤をしてきました。
名付けて「撒き餌作戦」。
「こんなイベントがあるよ?」
「こんな本があるよ?」
「こんな検定があるよ?」
みたいな感じで、とにかくいろいろなときにそれとなくいろいろなことに触れさせるんです。あくまで軽く。さらっと。興味がなさそうならそれでおしまい、ぐらいの感じで。
本や雑誌を家のあちこちにそれとなく置いておくとか。
あるいは「おとうさんの本棚」に読ませたい本をそれとなく置いておき、こっそり読まないか期待したり。
反応は期待せず、「歩留まり」=「打率」も全く考えず、空振りで当然のつもりで。それでもし、何かで手応えがあれば、そこをさらに深掘りしたいと思っていました。
もちろん、嫌がらなければ、いろいろな活動に参加させたりもしましたけどね。
馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない。
よく聞く言葉ですが、イギリスのことわざだと今回調べて知りました。
あっちにこういう池があるよ、こっちにはこんな泉があるよ、向こうにはこんな川があるよ…。でも本人が水を飲みたいと思わなければ、そもそも連れて行くことさえできませんよね。
なので耳元であっちがどうだ、こっちがどうだとささやいてみたり。「今日はあそこに水飲みに行ってみるね~」とやってみせたり。そんなことをしながら様子見です。
興味を示してくれればしめたもの。それをとっかかりに、興味をつぶさないようにできればいいのでしょう。
しかし、子どもが興味を示したものが親の期待と全然違ったら? あるいは、待ちくたびれたころ急に思い立ったように「100km先の湖に水を飲みに行きたい」と言われたらどうしましょう? その芽をうまく育てることが一体できるのかどうか。親としての覚悟が問われる気がします。
ウチの子はというと、
長男:
「水辺? 行ってもいいけど? 飲みたくなったら自分で行くけど、まあ連れてってくれてもいいよ」程度の、温度の低い感じ。
長女:
「水辺? 行く行く行く! どれぐらい飲んでいいの? ずっと飲んでていい?」みたいな感じ。
末っ子:
「……」(動かずじっと考える)
兄弟なのに三人三様。残り1人となった末っ子の大器晩成感に、今は期待です。
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あれも欲しい,これも欲しいという子。欲しいものが何もないという子。
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